から約780年前、九州の刀匠元重が関へ移り住み、はじめて関で日本刀がつくられた。この元重を刀祖と崇めながら、毎年11月8日を刃物の日と定め刃物供養祭を行っている。その頃の刀匠は日本の各地を遍歴し、刀に適する鉄や、焼き入れに必要な良質の水、焼刃土などを探し歩いたものと思われる。その後、関から多くの名工が輩出したが、中でも孫六兼元や和泉守兼定は有名である。孫六兼元は独特の作風を起こし、四方詰めの製法と三本杉の刃紋によりその名声は広く天下に鳴り響いた。世の移り変わりに従い、刀鍛冶にも盛衰があり、江戸中期(元禄時代)には刀の需要も減り、一部の刀匠は包丁、鎌などを打つ農鍛冶に転じた。
明治9年に廃刀令が布かれるに及び、刀鍛冶の殆どが実用的な家庭用刃物の生産に転向し、欧米から紹介されたポケットナイフの生産も始められた。明治27年には朝鮮(当時)へ打刃物類が輸出され、明治30年にはカナダへポケットナイフが出荷された。下って大正8年には金属洋食器(スプーン、フォーク、ナイフ)、昭和7年にはカミソリの生産がはじまり、戦前には大正、昭和を通じて、東南アジアへの輸出も盛んに行われた。
戦時中は一時軍刀生産一色に包まれるが、戦後は、再び伝統技術を生かして、包丁、ポケットナイフ、鋏、キッチンナイフ、爪切り、カミソリ、洋食器、アウトドアナイフなどがつくられ、国内は勿論、アメリカ、ヨーロッパを始め世界各国に輸出され、関はドイツのゾーリンゲンと並び称される世界の刃物産地に成長した。
関の刃物生産の特徴は多品種少量生産で、伝統技術に現代感覚を盛り込んだ数多くの新製品を生み出しながら、激動する国際経済情勢の中、着実に前進を続けている。 |